ご注意

このサイトはアダルト・サイトです。詳しくはわかりませんが、ご覧の国の律に従って閲覧してください。とりあえず、子供は十年いよ、一昨日来やがれ(笑)。
そして、大変僭越ながら、当ブログは特定秘密保護法案に断固として対します。だって、真っ先にこういうブログがかれそうだから。
そして、2013年末に亡くなられた大瀧詠一さんに心からの悼の意を表します。どうか安らかに。夢は消え、歌は残る。
なお、このブログは定期更新で、且つ、ある程度まとめて原稿を書いて、小出しに更新する、というスタイルでおりますので、多少最新情報から外れることもありますが、その点は気長にお付き合いください。
ですが、何かと不便なのでまとまりのはじめの記事に「直線ち」というラベルを付けるようにしましたので、そこからお読み頂けると、スムーズに楽しめるのでは無いかと思っております。
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2018年7月16日

常に射精


少話は前後しますが、例の師匠のデータベースのために、関連書籍を読んでいて、今は依存症に関するシリーズ本を読んでいるのですが、それによると、私はどうもセックス依存症らしい。そう聞くと、毎日とっかえひっかえセックスしていないと気が治まらない。或いは射精していないと落ち着かない、という切迫感のようなモノを想像しますが、そういうモノでもないようで。
毎日朝起きるとパソコンを立ち上げ、一段落ついてスリープにするか電源を落とせば良いモノを、使っていないのにただ放置しておくのはなんだか勿体ない、ということで今はアダルトDVDを流している。決まった時間に決まったサイトを覗く、もちろんアダルトサイト。最近は、洋物系の無料動画サイトですが、時々は気になったモノをパソコンに保存しておく。
ただ、この間、一切射精なしです。勃起すらもしない時もある。アダルトDVDはただ流しているだけだし、洋物動画も、同様にダウンロードしてBGV代わりに流すだけ。モニターを見ながらオナニーした、射精した、ってもう最近は長いこと経験していません。ちなみに、オナニーは風呂場でオナホを使って、というのが定番です。それも最近間が空くなぁ。
つまりそれは習慣のようなモノで、ただ、煙草やアルコールと同じように、依存性がある、と。つまりはセックス依存症であるらしい。自分としては俄には受け入れられないのですが、ではその行為に意味があるのか、というと切迫性はないし、ただ、快感も伴わない。それもまた、保存という行為に執着している、ということと繋がるのですが、それでもまだ納得いかない今日この頃。それはまた別の病気

2018年7月15日

カテーテル・フェチ


編の執筆は大変有意義で、エキサイティングな毎日で、結果ものすごく面白いモノができた、という実感があるのですが、その分まるでその結果を阻むような出来事が次々と起こりました。昨日話したDVDレコーダーが壊れるのもそうですけど、身内が体調を崩して対応に追われたり、地震があったり、天候の様子とかで、あまり落ち着く暇がなかった。
そして最大の障害が、私自身の検査入院でしょうな。循環器系がどうも思わしくなく、結果カテーテル検査なんていうモノを産まれて初めてやりまして。あまり気持ちの良いモノではなかったです。まぁ、結果として今は投薬だけで済んでますから、早めに気がついて良かった、ということにはなったんですが、なぜ今この時期に、と思わなくもないです。
それとは直接関係ありませんが、対岸の岡山、広島で、また大きな水害が発生しました。長編執筆とも多少関係あるのですが、去年知り合った友人が岡山に何人かいて、本人達は無事だったようですが、影響を受けた方々もいらっしゃる。この場を借りてお見舞い申し上げますが、なんだかなぁ、気が滅入る日々が続くような気がしています。そういうストレスも、心臓には良くないとか。
こういう時、自分達にできることは、ただ淡々と日々を過ごすことです。言いたいこと、不満なことはあるでしょうが、落ち着くまではひとまず於いておいて、日常を過ごすことです。そして、時が来たら大きく声を上げましょう。アダルト業界は、いろいろと今不遇な時代に入っています。そういうこともひっくるめて、生きてこそだと思う今日この頃。森ヨシユキさんのコメントが載ってる

2018年7月14日

謎の円盤 大納言


て被った平成の大不祥事の時、私の家にあるビデオテープの類いはすべて法務省の管轄になってしまった。録ったら消さない主義だったので、宮崎某もびっくりの膨大な量のテープがあった。映画、ライブがほとんどでしたけど、押収した刑事さんが、持ち出すのに苦労したと愚痴をこぼしたほどでした。結局、それらは全部処分されることになったのでした。
幾つか貴重な映像もありましたが、逆にもうテープなどというレガシーなモノを、税金で処分してくれたのだからコレは御の字、と思うことにして、それから今度はもっとコンパクトに、と円盤へと移行したわけです。思えばこのときに、いつ見るか分からないようなモノを保存しておく、という癖から脱却するべきだったんでしょうけど、ただ収納場所が少なくて済む、ということにしか考えが至らなかった。
円盤になったからといって、やはり見返す、という行為はほとんどなく、あっても限られていて、それを繰り返し見る、という程度。それに映画とか、わりと一度見て、せいぜいもう一回見ると満足するモノなのね。どうしても、という場合は今はネットでも見られるし、そうでなければDVDを買えばイイ。中古ならずいぶんお安くなっている御時世ですから。
つまり、保存に意味があるのではなく、保存という行為に執着があったのでは、と思い直したわけです。それは強迫観念を伴い、ある種の依存となる。解ければ何でもないことに思えるのがその証拠です。保存しておかなければ二度と見られない、という時代でもないです。そのことに気付いただけでも意味があったのかな、と思う今日この頃。まさかあの人が途中で死ぬとはね

2018年7月13日

激・松下紗栄子


常というヤツが戻った現在を俯瞰してみますと、気がつけば日がな一日、アダルトDVDを流す日々。今コレを書いている現時点でも、松下紗栄子さんがベッドの上で腰を振っております。ただ、今まで使っていたDVDレコーダーが壊れてしまって、HDDに録画はできるが、DVDに保存ができなくなった。かろうじて再生は可能だけど、それもどうも心許ない。
なので、最近は、パソコンの画面で見てます。気がつくと、うちにあるモニターで最も大きな画面がパソコンなんですね。そもそも、最近はなんでもネットでダウンロードの時代ですから、DVDドライブを使用する機会も極端に減った。ならば、眠っている機能は十全に活用してこそ。ただ、今までスクリーンセイバー代わりに走らせていた放置系の育成ゲームは、そのまま闇に消えてしまうのでしょうか()?
昨日、久しぶりに見たアダルトDVDが刺激的すぎた、という話をしましたが、時間を於くと今まで色褪せていた場面も意外に気になったりして。特に、立ちバックで繋がる時に、背中越しに後ろを振り向く仕草に、なんだか妙にそそられたりします。今からオチンチンが入ってくるところを、チラッと覗いてから、俯いて目的地を探る男の顔を切なそうに見つめるあの目()!堪りませんなぁ。
脱法覚悟でリッピングすればいいんでしょうけど、同じ動画といっても、ダウンロードモノとDVDとでは、まだちゃんと連携が為されていない。パソコンならその辺、一括で管理してシームレスに再生してくれれば、いろいろと捗るのに、と思ったりします。ちなみに、壊れたDVDレコーダーですけど、もう円盤に保存するのは止めて、一期一会、見たら消す方式でテレビを楽しんでいる今日この頃。アタッカーズ無敵


2018年7月12日

ブースト・リビドー


編の執筆が終わってから、時間を持て余すようになって、半ば停滞していた師匠の書籍データーベースを完成に導くべく、熱心に読書に勤しみまして、それが現在もターボがかかったまま続行中です。相撲が始まったので、多少ペースは落ちましたが、ガツガツ毎日読んでます。相変わらず、読む速度は遅いし、途中で眠くなるのは変わらないんですけど。
小説を書く時はなるべく引っ張られないように、本を読む時も実用書を中心に読むようにしていますが、官能小説も多少その引っ張られない範疇に入るので、読んでみたりはします。もっとも、たまにはそういう種類のモノにも手を付けるので、状況によりけりですけど。まぁ、官能小説は違う意味での表現が発達していますので、勉強にはなるんですがね。
ただ、官能小説を読んで欲情する、ということはあまりないような気がします。今の御時世なら特に、なのかもしれませんが、直接的に性欲を刺激するモノはネット上にはあふれていますから。アダルトDVDもそうですが、射精産業の多くはファンタジーの中に存在しています。言い換えれば妄想の世界です。妄想は、人それぞれ、掬う部分が多岐に分かれます。
私の場合は、シチュエーションです。どんな状況でセックスに至るか、がポイントになります。官能小説はそのアイデア、或いはぼんやりと浮かんだ状況を裏打ちするヒントをもらったりします。まぁ、そういう所から話が膨らむことはあるのですが、逆に直接的な場面からフィードバックすることは稀。若年層ならいざ知らず、もう色んな行為を試してきた粘弾だから仕方がないと思う今日この頃。四十代あたりが境目か?

2018年7月11日

甘くないだけのチョコレート


久しぶりです。さすがに七月にもなって明けましておめでとうはないだろう、と踏ん張っての更新です。正月の記事にも、また本店の方でも話しましたが、今年は大きな書き物の予定が入っていまして、それに半年、取り組んでいたのですが、ようやく終わった、ということで時間ができました。まぁ、今の時点ではまったくお金にならないものですが、ひとまず肩の荷が下りまして。
執筆の最中、それはごく自然にそうなったのですが、しばらくエロから遠ざかっていた。まぁ、リハビリと称してその直前に色んなモノを書いている時は、普通に音を消したアダルトDVDを流していたりしてたんですが、まったくそういうこともなく、また師匠に習って執筆中は音楽も鳴らさず、ということで、本当に集中して書いていたのでした。
それが解けて、またしても本来の日常に戻ろうとするのですが、なかなかすぐには生活のペースというのは変えられないもので、これまた徐々に、ゆっくりとエロティックなリハビリ、と相成ったわけです()。とはいえ、完全に遠ざかっていたわけでもなく、海外物の動画とは習慣で見ていたので、それを徐々に拡大、というわけです。
ただ、まさかこの歳で、アダルトDVDをみてコレはちょっと刺激が強すぎる、なんて思うとは思いませんでしたよ()。正味二ヶ月ぐらい、アダルトDVDを流さなかっただけなんですけどね、久しぶりに鑑賞した長澤あずささんはちょっと強烈すぎました。といってソフトなモノ、といってうちには無いんですが、多少の荒療治の意味も込めて、今はすっかり元通りにはなっている今日この頃。
お嬢さん、逃げて!

2018年1月1日

~迎春~

けましておめでとう御座います。
昨年は、ついに本部の方が大団円を迎えまして、ひとまず休止と相成りました。まぁ、ここだけの話、リアルタイムと言うにはちょっと時間が空きすぎて、どこかで線引きをしないといけないなと思いましてね。それに、私も多少彼女の話には飽きてきた。最初の頃はもう、新発見というか、彼女の知らない話に驚くばかりで、かなりモチベーションも上がっていたんですが、さすがに限界がある。
もうひとつ、ここでは言えない話もあって、多少あちらの方もペースダウンしている。新聞沙汰にもなったりしたので、正直私が話せる話にも限界が見えてきた。そちらは、時間がたてば話せるとは思いますが。そんなこんなでひとまず休止ということで、よろしくお願いします。しばらくはそのまま、置いておきますので。Fc2以前の話(SBSブログ)が聞きたいという方がいらした連絡ください。なんとかします。
そうなると、自ずとここの比重が重くなる。奈乃で、もうちょっと頻繁に更新出来ればいいのですが。本店の方でも話したとおり、今年は小説を書かないといけないハメになったので、ここはひとつ、気合いを入れて執筆活動に専念せねば。あくまでアマチュアなんですけどね。ただ、飽き性なので、一作のみ、というわけにはいかないので、多少ここと関わり合いのある方向にも手を伸ばせれば、と思っています。

こその本店の話の通り、昨年も素敵な出会いがありまして、それが未来に繋がる。それは、ネット上で繋がることが出来た、リンヂ監督との関係でも、よく現れているんじゃないかと思います。少なくとも私はリスペクトしていますし、ブログを楽しみにしています。今年もどうかよろしくお願いします。ということで、ますます御贔屓の程を。ちなみに、フェラチオの前には二、三度オチンチンを扱いて欲しい、と思う今日この頃。今年もよろしく

2017年7月3日

シリーズ 騎乗位を考える(13) リベンジポルノを喜んでいるのは誰だ?

性が最も淫らに乱れている姿を収めるには、ではどうするか。手が伸ばせない以上、そちらにカメラを置いておくしか方法はありません。ただ、画像を撮るデジカメの場合、シャッターを遠隔操作しなくてはいけなく、それは安物のコンデジではまず不可能です。タイマーとかを駆使して、といってもまぁ、想像してみれば分かるでしょう。タイマーセットして、ベッドに戻って彼女を上に乗せている、なんて間に合いませんし、興奮も途切れてしまうってモノです。
そうなると、動画の方にアドバンテージがありますが、モニタリングをきちんとしておかないと、やたらと画面の端の方で写っているだけで、無駄な空間がぽっかり空いている、またそこにピントが合っちゃって大事なところがピンボケとか。何より、セックスしている最中に、テレビ画面の方ばかり気にしているのもなんだか、没頭とはかけ離れているようで、相当な鍛錬が必要でしょう。この辺、ハメ撮りの難しいところです。
結局、最もスムーズな方法は、他人に撮ってもらう、ということです。あるいは他人とセックスしてもらって、自分は撮影者に徹する。このどちらかです。何れも本末転倒、というべき問題を孕んでいますが、逆に、そこまで行ったら大したものです。このリベンジポルノの喧しい時代にあっても、撮り撮られの関係が継続していること自体、これほどの信頼関係の構築は神がかっています。その愛の強さこそ、賞賛に与えるべきです。

つまり、背面騎乗位というのは、最も女性が没頭にするに容易な体位ですが、それが晒されているのは実は、相手の男性ではなく、言ってみれば見えざる観客に向けてである、ということになるのです。そこに撮影が絡んでいるかどうかは関係なく、その時女性は、紛うことなき淫靡な女優である、ということです。私はそのことを、最も賞賛したいと思いますし、だからこそ、表現者としての本能のようなモノを女性は誰もが持ち合わせていることに驚愕する今日この頃。その種は小泉純一郎が蒔いた

2017年7月2日

シリーズ 騎乗位を考える(12) リベンジポルノのための背面騎乗位

面騎乗位は、こと男女の仲の中では微妙な位置を占めていることになりますが、ちゃんとした利点もあります。それは視点を変えて、そのままの状態で、視点を反対側に向けてください。そこがラブホテルで、全面鏡張りのような場所なら、少し顔を上げて彼女の姿を鏡越しに見てみてください。そうです、そこには彼女しか写っていない。つまり、セックスの最中の女性のみがそこに存在している、という状態なのです。
前にここでも言いましたが、下半身さえあれば善いと歌ったのはクラウザー閣下ですが、それは女性ではなく、男性のことをいっている気がします。昔の裏ビデオを見ていると、不必要に男の顔が邪魔をしたり、男の尻の方が大きく写っていたり、とかく男の存在が邪魔な時があります。人ぞれぞれではあると思いますが、そこに自分の顔があっても時には邪魔になるときだってあるものです。その懸念を払拭できるのが、まさに背面騎乗位の状態です。
その効果を確認するには、鏡に映った姿を見るか、最も良いのは男の足の方からカメラを向けてみることです。後で再生する画像でも映像でも一緒ですが、そこに写っているのは女性のみです。しかも股間にはズッポリオチンチンをくわえ込んでいる。最も淫らで扇情的な姿と思われるものが、そこに女性単体で写っているのです。

さてそこで少し話が逸れますが、好みもあるでしょうが、そういうエロい状態を映像か動画に残そうとしても、簡単にはいきません。倫理的なことはさておき、技術面で困難が伴います。わかりきったことですが、どこぞのゴム人間でもない限り、カメラを自分で構えていて、背面騎乗位の女性の正面を写すことは不可能です。あなたの手にカメラがある限り、アナタが写せるのは、彼女の尻や背中だけです。まぁ、それも悪くは無いですが、さっき云った最もエロい彼女の姿は写せないのです。余談ですが、それを気にしたわけではないですが、ある女性は、私が背中からカメラを構えたとき、アヌスに指を挿れて掻き回す、という扇情的なポーズを取ってくれて、それはそれでなかなか興奮する画像が残っている今日この頃。地溝帯の罠

2017年7月1日

シリーズ 騎乗位を考える(11) 生き物バイブレーター

ることに関して、対面はアドバンテージがありますし、距離という面では最も近い。女性の感じ入る部分に最短距離で肉薄できるわけです。一方の背面は、視覚の面では幾らか劣りますし、見えない部分を晒すわけですから、繰り返しになりますが、お尻の吹き出物や、背中の産毛、蚊に噛まれた後、まぁ稀ですが、刺青とか。とにかく自分では目の届かないところを最愛の人に見られるわけです。
不思議なモノで、男性の場合、セックスの体位で背中を見られる、ということはまずない。まぁ、曾てのヘリコプターとか、ああいう特殊な体位も無いわけではないので、全くないとは言い切れないですが、一般的なセックスだと、それは機能的に背中を見せないことになります。機能的というのは、それはもうオチンチンが前に着いていて、前にしか向かない、ということです。
話を戻すと、背面は女性にとって最も無防備な姿かも知れません。ただ、羞恥を捨てれば、逆に男の顔が見えないことで、自分に没頭できる、という利点も浮かび上がってきます。セックスは男女のコミュニケーション、というのが基本ですが、背面はまさにそれに反するわけです。しかし、繋がっていることに集中できることもまた、利点であるといえば利点。この辺のバランスはひじょうに難しいところです。

そこでこの間の話です。いいよ、と言って上に乗っかって、女性後ろを向かれたとき、まぁそれが最も彼女の好きな体位だったとしても、男性は一抹の不安を頭の片隅に置くべきです。極端な言い方をすれば、その時アナタは生身のディルド、と化しているのかも知れません。女性は目を閉じ、本当に好きな男の顔を思い浮かべているかも知れません。まぁ、それは対面だからといって解消されるわけではないのですが、少なくとも、背面は女性が最も我が儘に振る舞える状態であるかも知れない今日この頃。予想してたけど

2017年3月11日

セックスは男と女の晴れ舞台

論として、まだまだ言い足りないこともあるけれど、私の宗教観の根本は、神様の世界はシステム、宗教はスタイル、という位置づけ。システムを悪用すると、曾ての大戦のような悲劇を生む。スタイルを見誤ると、独断が先走って軋轢を生む。少なくとも日本に伝来した仏教は、神様の世界と上手く折り合いを付け、それを今の社会そのものに転化してきた、いわば幸せな宗教を持つクニに作り上げてきたはずで、そこは世界に誇って好いはず。
どちらかというと神様の世界にシンパシーを感じる、というのは、結果、神様は結構情欲に素直である、と謂う部分も大きい。宗教はなぜかどこも、セックスには厳しい。ましてや倫理観としてアダルトの世界を毛嫌いしている。そんなはずはないんだけどなぁ、と私などは思う。ただ、女性は毎月血を流すので不浄のモノ、という考え方は、宗教になると顕著になる。特に日本の宗教には、その傾向が強いのはなぜだろう?
おそらくそれは葬式の成り立ちと関係があると睨んでいる。現代は葬式と宗教は、密接に関わっているけれど、そもそも埋葬は死による病原菌の蔓延やそういうリスクヘッジのための知恵だったはず。それが宗教と結びついたのも、神様へのご機嫌取りという意味で理解できる。そういう時に、やはり血の赤は忌避すべきモノだったのだろうか?

いずれにしろ、女性への差別はそこら辺から脈々と受け継がれている。もう忘れているだろうけれど、この話の一番最初に、LGBTの話をしたけれど、性の解放というモノとも密接な関わりがある。しかし、今の女性の政治家には期待できない。だって彼女たちは皆、ただ男になりたいだけだから。男性的ではない、女性らしい何かで社会を変えようという姿は見えない。特に民進党の党首さん、アナタが男になってどうするの?やっぱり、その辺もね、アダルト業界が文化として独り立ちする未来に希望があるような気がする今日この頃。その前に腹を切らされたみたい

2017年3月10日

神様の統一理論

の理を神様という形で擬人化して現したのは、人類の知恵だと思う。その時、全く何か違う存在として突き放さず、自分と同じ姿形をした人に当てはめたことが、その後の信仰も含めて、ひじょうに意味がある気がする。お遍路の締めとして、高野山に行った後、中部地方から関東辺りまでのんびりとクルマで旅をしたのだけど、その時思ったのが、日本には、どんなところにも神様が居る、ということだ。
それこそ、その辺の石ころでも、老木でも何でも、神様として祀っている。それぞれに謂われがあり、人間と関わっていたのだろうと思うけれど、それは全て、人にとって良いことばかりではなかったはず。多くが災害であり、困難の象徴であったはずだ。つまり古の日本人の感覚では、神様は良いこともするが、悪いこともする。時々機嫌も悪くするから、お供えとかお祓いとか祝詞とか神楽とか、機嫌を取らなくてはいけない。機嫌を損ねると大変な災いが襲ってくる。
そういう風に、ひじょうに神様は人間的なのだ。全く逆説的な言い方だが、全知全能の神は存在しない。まさしく物理学や、天文学の理論の数だけ、様々な顔を持った神様が居て、その多くが人間の意のままにはならない。だから、上手く付き合っていかなくてはいけないのだ。説き伏せるでもなく、もちろん盲目的に付き従うのでもなく、仲良くやっていくのだ。そこが帰依する宗教とは違う感覚。

改めていうが、神道という宗教はまた別の話。あくまでも民間信仰、民族的な神話の意味での神様。それは更に時代が下ると、日本人が寄って立つ時の流れ、歴史、のようなモノまで神様に当てはめて、それは現代まで脈々と受け継がれている。まさしく、システムそのものに違いない。私がある種盲目的に天皇制を固持したがるのは、そのシステムの権限である、という考え方が大きな要因を占めている。システムはなかなか変えられないでしょ、と思う今日この頃。探求は何時までも続く

2017年3月9日

3031回のギターの夢

には見えないが科学理論がこの世を動かしているのと同様、それを擬人化した神様の世界も、この世に遍く存在している。そう考えてもおかしくないはずで、つまりは、神様の世界はこの世のシステムと同義、と私は考えている。もちろん、今はそれの多くを科学に置き換えた方がわかりやすく、そこにまで神様を定義づけすることはしない。でも、例えば地鎮の神様、産土神、なんていうのは、全く科学的ではないけれど、なんとなく未だに信じられたりする。
曾てお大師さんが高野山に根本道場を開いた時、八咫烏に連れられて導かれ、その八咫烏こそ地鎮の神様だった、という伝承が残っている。だから寺を建てる前に、断りを入れるために神様を祀った、と謂われている。現代は、神仏習合以後なのであまり正確ではないけれど、だいたい寺院の敷地の片隅には、神様の社がある。それは、仏教を修行する地を下支えする存在として、その土地の守り神を祀ると謂う風習からだ。
そうするとますます、神様の世界がこの世の理、いわゆるシステム、であるような気がしてならない。目に見えることも、見えないことも、科学で説明できることも、出来ないことも、全てひっくるめたシステムを、古の日本人は、神様としてそれぞれの役割を与えたような気がする。変な言い方だけど、だから信じられるのは神様、という認識が私の中にある。例えば願い事を叶えてくれるように頼むのは神社、という程度で。

そのシステムの上に則って、様々な生き方を選択する。それが宗教であり、システムに対して、宗教はスタイルなのだ、という風に捉えている。スタイルは強固に信じられれば幸せだが、時と共に移り変わり、必ずしも一義的ではない。一方神様の世界は、システムなので、変えようがなくそうなってしまう。抗えないし、もうひとつ神様には大変大きな特徴があると思う今日この頃。左翼でもないけどね

2017年3月8日

四番ファイヤーガール

対性理論によると、この世の中で光を超える速度のモノはない。これはもう物理学の常識であり、そこから全ての理論が始まっていると云っても過言ではない。ではなぜ、光を超える速度のモノはないのか?実はその答えは誰も知らない。そうなっている、としか現代の人間は言えないのだ。でも、それで今の世界は回っているし、科学技術はその曖昧さを残したままで進化しているのだ。
曾ての人類は、そういう科学理論を漠然と知っていても、例えば文字を発明していなかったり、観測技術を持っていなかったりして、科学として体系づけることも出来なかったし、それを技術として構築することも出来なかった。でも、そこに例えば相対性理論は確実に働いていたし、光は何よりも速い速度を保っていたのだ。そういう頃に、例えば太陽はなぜ明るいのだろうか、風はなぜ吹くのだろうか、水はなぜ冷たいのだろうか、という疑問を感じる者はきっと居たはずだ。
そんな時、大気圧の関係で、なんて科学を持ち出して風が吹くことを説明することと、風神さまが大きな袋を持ってだな、という風に表現することの本質は変わらない。どちらも、目に見えないモノ、なぜそうなるか分からないモノに、解答を紡ぎ出す作業だ。その時考えられる英知の発露として、科学もあり、風神さまもある。古なら擬人化で済んだモノも、今は科学が蔓延している故に、判らないことは判らないとしか言えなくなったのは、果たしてより進んだ世界と言えるだろうか?

とにかく、分からないモノに名札を着ける、ということが、例えば天災などと密接に結びついて、解決を探るための理論としての、神様の姿、というのは立派な人類の知恵に違いない。宗教が人を救う、あるいは人生の理の理論であるならば、科学ともそう変わらず、信じるに値するモノだと言える。科学が賄えない部分を、宗教が補えば、両者は共存できるはずであり、実際現代はそれを実現している。もちろん科学の中には、エコノミック・サイエンスも含まれている今日この頃。9mm Parabellum Bullet最高!

2017年3月7日

ふるさと射精

の世界的な宗教全てを勉強した訳ではないけれど、おそらく仏陀が見た世界も、キリストが見た世界も、預言者ムハンマドに囁いた世界も同じモノだと思う。現実には見えない別の宇宙がある、ということが宗教観を導くのだとしたら、それは必ずしも異次元のものでなくても良い。捉え方の違いだ。そう考えると、やはり、身体の中の生理的器官として、肉体的な何かのスイッチが入ると生態的にな知覚に作用して見える宇宙がある気がする。わかりやすくいえば、夢を見ている時に感じる、現実感はないけれど実際にこの目で見ているような認識。
そこまで考えると結局、人間である限り備わっているひとつの場所から全ての宗教は始まっていると云っても過言ではないかも知れない。だからといって宗教対立を否定はしないけれど、そもそも、特別なモノでもないという認識の方がずっと受け入れやすいのではないか。そう簡単なものではないけれど、おしなべて人の全てに備わっていて、もっと多くの人がそこに触れる方法を試してみれば、もっと多くの宗教家が生まれてもおかしくない。
あくまでそれは私の推論でしかないけれど、つまりは宗教で語られる教義という名の道徳は、人の捉え方から逸脱しないのだな、と思うのだ。人が考えつく以上に宗教は何も語らない、ということ。結局、人に帰依することに過ぎないのだ、と。すると、ストーンズのキースでも好いし、大川某でも好いし、こういう話をする私でも好いではないか。そこでポッと出てくるのが大日如来である。

この世界に遍く存在するモノ、世界そのもの、という考え方は、私の中で、この世の理と繋がる。それは人間関係とかいう曖昧なものも全て含んだ、科学とか理論的なモノ。相対性理論はこの世の物理を全て言い表しているようで、そうでもない。その佇まいは言い換えれば、宗教に似ている。科学は検証できることで、人々は信じているけれど、万能ではない。科学を信じることと、宗教に帰依することは、ほぼ同じ事だと思う今日この頃。一袋に十個しか入っていないのが玉に瑕

2017年3月6日

セックス入信

言宗の宗教観の中心にあるのが、大日如来として顕現されている仏。これは、遍くこの世に存在する仏様、という風な言い方をされるが、平たく言えばこの世の中そのもの。それを仏様の格好で偶像化したのが、大日如来の姿、というわけ。阿字観はこの大日如来を想起することで、この世界そのものと一体化し、ひいてはこの世の理に触れる、というのを目的としている。幽体離脱とか、神秘体験はその副産物。
阿字観をはじめ、瞑想は必ず呼吸法を伴う。腹式呼吸で長く吐き、長く吸う、を繰り返す。実際やってみると判るが、これは案外苦しい。普段意識せずにしている呼吸とはまるで違う。終わると大きく深呼吸するほど、軽く死にそうな感覚になる。まさしくこの臨死体験、死に近づく行為が、瞑想なのだ。悟りを開く、解脱という境地は、この臨死体験の時に見る瞬間の映像、体験がもたらす、というかそれがそう。
前に云ったように、極楽浄土は死んでからしか行けない。ただ修行でそこを垣間見る、というのはそういうこと。死にそうな瞬間に、見える風景を実際に見ると誰でも、やはりあるんだ、と信じてしまう。そのひとつの確信が、輪廻からの解脱から始まる仏教の教義をひとまとまりに繋げるのだ。

ただ、この臨死体験、なのかどうか正確ではないけれど、苦しい呼吸法を行うことで、身体が反応する生理現象、というのが一般的な認識だ。ある種の脳内麻薬のようなモノで、幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりする。それもきっと、人間がまだ知らない生理現象、遺伝子に綿々と刻まれた身体の中の記憶なのだろうという気がする。そう考えると、誰でも極限まで我慢すれば、悟りを開けるような気がする。ただそれは相当苦しい。死を覚悟するほどの我慢が必要だ。と、こういう言い方をすると、なんとなく世間一般にある修行のイメージにかなり近づく気がする今日この頃。セミは死ぬもんね

2017年3月5日

豊かな日曜日

教を道徳と同列に考えるなら、例えばピプルレ騒動の彼女を救うのが、必ずしも宗教である必要はない。この場合教団、というべきか。例えば人権団体でも、暴力団でも、半グレ集団でも、政党でも、地域のコミュニティーでも、学校でも、恋人や、なんなら私でも()何でも良かったはずだ。自らの道徳を持って、それを信じることで、未来が待っていると信じ込ませられる集団、あるいは人物ならそれでも充分信仰する価値はあるはずだ。縋ってきた者に、それが正しいことだ、と信じさせるために頼られた者は行動すれば良い。信じようと信じる側が努力してもいい。
ストーンズを教祖としてロックを信じてオレは生きていくぜ、でも全然かまわない。要は、その時信じられるものに縋るしかない、ということと、一方で哀しみや苦しみは相変わらずそこにある、ということ。このことだけを知っているのと知らないのでは、随分違う。宗教も構図は変わらない。信じるために田畑売って全財産をつぎ込むのも、ストーンズのCDを全部買い集めて毎日聴くのも、同じ事なのだ。
もっと言うならば、信じていられるモノならば、自分で作り出してもいい。自分だけのオンリー・ワン宗教で誰にも迷惑は掛けないなら、なんだってかまわないのだ。そこまで考えると、結局、誰か信じられる人がいるのは幸せ、という結論が見えてくる。例えば、宗教だったら、教祖。私の場合、どこの檀家でもないし、入信も何もしてないけれど、単純に興味、という点でやはり地元お大師さんのご威光、なんていうことをよく口にする。

そして自分なりの観点で、自分がわかりやすい宗教観を形作ったことで、いろいろと物の見方が変わってきた。そこでもう少し突っ込んで、今度は神様の話をしようと思う。ただし、注意しなければいけないのは、いわゆる神道という形の宗教とはまた違う、神様の話、わかりやすく言えば、皇室に繋がる古事記や日本書紀に登場する神様の話。かといって日本会議のようなモノともちょっと違う今日この頃。決して悪いことではありません

2017年3月4日

残精感

教を手始めに宗教観を身につけた私だけど、他の宗教も似たようなものだろう、と思っている。そのことは後で説明するとして、だから共通項として、この世で生きることは苦しみに晒されることなのだ、ということはどうやら間違いないようだ。そこで開き直れれば、宗教なんていらない。もっと言えば、更にもっと苦しみを、来世ももっと酷い苦しみを、なんていう人が現れれば、宗教はその時終わる。少なくとも仏教は。末法の時代だね。なるほど末法の時代とは、マゾヒズムの蔓延した時代だから、現代と云っても過言ではないな。
それはさておき、例のピプルレ騒動に話を戻してみよう。彼女はきっと、気づいたのだ、この世は苦しみに満ちあふれている、と。それは今まで教義の中の現実味の無い話だったけれど、実際社会に出て、自分の心と現実の齟齬に気づいてしまった。それを苦しいと感じる自分に気づいたのだ。だから解決方法を探った。彼女の場合、そこにまず宗教があった。信じれば救われると説く宗教があった。そこに逃げ込んだ。
かの教団がどういう教義を説いているのかは判らないけど、私の宗教観に照らし合わせるなら、苦しいことは変わらない。それこそ、オウムのように苦しみから解かれる世界を自分で構築する以外に、苦しみから逃れることは出来ない。苦しみはそこにあり続ける。彼女が選んだ道はそれを、宗教というサングラスで見えなくしただけ。彼女が本当に救われるのは、これから修行し、教義が説く正しい(とされる)道を歩んで後に、死んでから現世に戻ることなく極楽浄土に留まって初めて、救われたと実感できるのだ。

まぁ、宗教家がその通りに彼女に言ったかどうかは判らない。さっき云ったように、宗教が説くのが道徳ならば、様々な正義による道徳が存在するのだから、必ずしもそれが今の日本の社会の規範に沿うかどうかは判らない。しかし一般的に社会と仲良くしていこうと思うなら、互いに話し合って落とし所を探ることを説くのも、これまた宗教の役割ではないか。現代カルトと呼ばれる宗教が、忘れているのがその社会との軋轢を生まないようにするのも正しい道だ、という認識だと思う今日この頃。小林製薬辺りに

2017年3月3日

快刀乱麻を断つ

いでだから極楽浄土について話してみよう。極楽浄土はあの世にある。つまり、死んでからしか辿り着けない。これは仏教の基本原理。そしてそれと並んで重要な仏教の原理は、人の苦しみは輪廻からもたらされる、ということ。輪廻とはこの世に生き返ること。つまり、この世は苦しみに満ちあふれていて、死んでもそこに舞い戻ってしまう、これ以上の苦難はないよ、というのが仏教の根本的な考え方。
極楽浄土は、生まれ変わることなく留まる場所。つまり、苦しみから開放された場所。ココへは死んでからしか行けない。それはいくら修行を積んだ聖人でも、それこそお大師さんでも、生きているウチはたどり着けない。死んでからしか絶対に行けない。翻って、現世は苦しみしかない場所。そこをサバイバルしていけば、極楽浄土にたどり着く。このカラクリを、仏陀さんは気がつき、それが悟りとなったワケ。
正確には悟りの瞬間、仏陀は極楽浄土を垣間見た。実は、極楽浄土を覗き見することは可能なのだ。それは後で詳しく話すとして、悟りを開くというのはその極楽浄土をチラリと覗き見したことであり、そこから始まる。実際にこの目で見たんだから、確実にある、と信じられる。そこに存在している限り、そこに行ける者が居ると確信できる。その確信が、いわゆる悟りなのだ。阿字観をはじめとする瞑想や、苦行はまさしく、その極楽浄土を覗き見するための方法なのだ。

さてココに宗教に対する一般的なイメージとの乖離が生まれる。え?宗教って信じれば救われるんじゃないの?それは嘘じゃないけど、正確じゃない。救われるのは死んでから。二度とこの世界で味わう苦しみを体験しなくて済むために、修行する。何の因果か、この現世に生まれてしまったのは前世の業ゆえ、それを払うために、修行しましょう。では果たして修行とは何?それはつまり信じることだと結論づけられる今日この頃。精子洩れも断つ

2017年3月2日

妖言惑衆

んな宗教の本を読んでいて、私が読むような本だから本格的ではなくせいぜいちくま学術文庫が関の山、後は新書クラスの分かりやすいものばかり。そういうものばかり読んだせいか、ある日あることに気がついた。仏教は、時代によって色んな世代に分かれる事を学ぶと、その折々に必ず開祖や中興の祖、と呼ばれる宗教家に出会う。密教では空海さん、浄土宗では親鸞さん、そもそも、仏教と言えば仏陀、みたいにね。
真言密教が革新的だったのは、それまでの仏教は修行した者だけが救われる、という小乗仏教から、そんなみみっちいはずはなく宗教が衆生を救う、という大乗仏教に移行したこと。そして密教は、その為の呪術や加持祈祷などで、困難を切り開いてみせた。最終的に、仏教はシンプルさを求め、ひたすら無に近づくための禅や、お題目さえ唱えていれば救われると解いた浄土真宗にまで至る。
いずれにしろ、庶民とのインターフェースとして仏教の布教家、あえていうと教祖、そういう人に出会う。そう、突き詰めると人間に出会うのだ。宗教が説くのは生き方であり、修行はその為の戒めである。修行をし、教義に則った真っ当な生き方を死ぬまで続けたら、ご褒美として極楽浄土が待っている。そこへ導くのが、いわゆる教祖、開祖、なのだと気がついた。これは自分でも結構エポックメイキングな出来事だった。

つまり、宗教は辿っていけば、いつか人に出会うのだ。その人が言うことを信じそれこそが宗教なのだ、と私は悟ったワケね()。それはもっとありきたりな構図で云えば、先生と生徒の関係であり、教える正しい道というのはつまりは道徳のようなものだな、と。先生のいうことを聞いてルールを守って正しく生きれば、飴玉をくれる、というのと同じように、仏教が語るにはそこに極楽浄土が待っている。これが究極のご褒美で、そこに辿り着くための近道を説くのが仏教なのだと理解した今日この頃。好感は抱いたけど(笑)